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宝林廟 西音寺 麦川保育園 麦川地域などの情報を写真で紹介

大嶺炭田の歴史(白岩社宅跡地)

 新しい年もはや1ヵ月が過ぎようとしている1月最後の今日、とても良い天気になりましたので、カメラを持って旧山陽無煙鉱業所の白岩社宅跡地を訪れました。白岩(しらいわ)には山陽無煙で働く従業員とその家族が住んでいた、いわゆる「ハーモニカ長屋」と呼ばれた社宅が広大な敷地全体に林立していました。個人宅7~8軒が連なって1つの棟を形成し、それが何十棟と建ち並んでいた様子は今でも鮮明な記憶として私に残っています。いまはうっそうと笹竹や雑草などが生い茂って大やぶになり、かつて映画館、共同浴場、購買店、理髪店、保育所などがあった場所には、当時を偲ばせるようなものは何も残っていません。荒れ果てた社宅跡地を歩きながら、芭蕉の次の句がふと思い浮かびました。

  夏草なつくさや つわものどもが 夢のあと

 白岩地区にかつて人であふれた、にぎやかな炭鉱住宅街があったことを記憶している人は遠からずこの世からいなくなります。そうなる前に出来れば歴史記録として炭住街の写真を入手して本ブログに載せることができればと思っています。

県道から白岩社宅に入る橋(橋上の白いガード以外は当時のままと思われる)
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橋からまっすぐに伸びる当時のメイン・ストリート
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白岩社宅入り口の橋の方向をのぞむ
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車の見えるあたりがメイン・ストリートの十字路
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やぶに覆われた跡地
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どこに炭住街があったの?というほど荒れ果てた現況
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2014-01-31 : 麦川地区 :
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石村勝宣画伯を訪ねて

 周防大島にお住まいの石村勝宣画伯を囲んで懇親会を開くため、友人2人といっしょに日曜の午後から1泊2日の日程で大島へ行って来ました。懇親会の翌日はアトリエにお邪魔して、制作中の作品や保管してある作品を興味深い解説をまじえて見せていただきました。
 画伯は高校の2学年下の同窓ですが、数年前に友人の紹介でお近づきになるまで面識はありませんでした。父上が山陽無煙鉱業所の炭鉱で働いておられた関係で、美祢市豊田前町で生まれ育ち、高校まで過ごされました。卒業後は絵を描く道を歩みたいという希望が強かったため、東京の専門学校で絵の勉強をされ、そのあとは独学で油絵を学んで作品を発表して来られました。
 芸術家の世界はどの分野であれ、優れた作品を発表しても世間に認められるのは容易なことではなく、画伯も幾多の困難を経験されたようです。しかし、誰にもおもねることなく、また生活のために妥協することなく、ただひたすら自分の描きたい絵を描き続けて来られた結果、しだいに画商から注目されるようになり、画廊やデパートなどで個展を開催するまでになられました。でも、生涯無名を貫きたいという思いが自身にあり、そのせいもあってか、知る人ぞ知る画伯ですが、その絵をコレクションしている熱烈なファンが何人もいらっしゃるようです。
 現在は父上の出身地である大島に奥様と2人で住まれ、一日中アトリエにこもって絵筆を握って過ごす毎日だそうです。私も一昨年の秋、黒崎井筒屋(北九州市)で開催された画伯の個展をはじめて拝見して以来、すっかりその絵に魅了されたファンの一人です。

アトリエの石村画伯
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アトリエ
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大島から見る瀬戸内海
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大島から見る瀬戸内海
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正覚寺(大島町小泊)
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荘厳寺(大島町日前)
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大島大橋
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2014-01-27 : 山口県 :
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唐戸市場(下関)

 今朝は下関の唐戸市場までお土産として持参する魚を買いに行きました。日曜日だったので市場内に「活きいき馬関街(いきいきばかんがい)」が開かれていて、フグ、マグロ、タイ、ハマチなど新鮮な魚のにぎり寿司や海鮮丼を販売するたくさんの店がずらりと並んでいて、多くの人でごった返していました。いまでは家庭でほとんど食べられなくなった鯨肉もいろんな部位が販売されていました。店よってにぎりのネタの大きさや丼の種類、値段が異なりますから、見比べて品定めをするのも楽しいものです。寿司や丼物を買って市場内や外のベンチなど適当な場所で食べる人が多く見受けられます。私もせっかくですから、にぎりを買ってそこで食べました。店の人は話では、「馬関街」は週末の金~日曜に開かれるそうです。

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2014-01-26 : 山口県 :
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大谷本廟に参拝

 20,21日の1泊2日で京都と大阪に行って来ました。本来の目的は大学時代の研究室の研究会と同窓会とを兼ねた会合が大阪で開かれるのに出席するためです。そのついでに京都まで足を伸ばして、大谷本廟にお参りしました。大谷本廟は宗祖・親鸞聖人のお墓があるところです。また境内には第一無量寿堂、第二無量寿堂という2つの納骨堂があります。ここには宗派の寺院や門信徒の納骨壇があります。西音寺も第一、第二の両方に納骨壇を借用していて、私の両親やご門徒の皆さんの遺骨が分骨されています。帰途、本山・西本願寺にも寄ってお参りしたかったのですが、大阪での会合時間が迫っていたため、残念ながらお参り出来ませんでした。

総門
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仏殿(本堂)
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明著堂と右側に無量寿堂
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2014-01-22 : 県外 :
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湯本温泉の猿対策

 湯本温泉(長門市)は家から車で30分くらいのところにあり、そこに二ヵ所ある共同浴場は泉質が良く、入浴料(200円)も安いので、たまに利用します。利用するのは、もっぱら音信川(おとずれがわ)のそばにある「恩湯」の方ですが、そばの駐車場にユニークな猿対策が見られます。
 そこの駐車場の三ヵ所に下の写真のようなカニの絵が掲げてあります。最初この絵を見たとき、どんな意味があるのかわかりませんでしたが、どうやらこの温泉町に野生の猿が出没するらしく、その猿よけのための絵だろうということが看板から推測されました。
 日本の民話の「サル・カニ合戦」の中でずる賢い猿をカニとその仲間がこらしめる話にもとづいたものでしょうが、野生の猿がこの絵を見て出没しなくなったという話は聞きませんし、実際そんなこともありえないでしょうから、単なる「おまじない」にすぎないと思います。それにしても誰の発案でしょうか?

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野生の猿が出没するという看板
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共同浴場「恩湯」
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共同浴場「礼湯」
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温泉町を流れる音信川
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2014-01-19 : 山口県 :
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絵本 『いのちをいただくーみいちゃんがお肉になる日ー』

  昨年の12月に刊行された『いのちをいただくーみいちゃんがお肉になる日ー』という絵本を購入しました。この絵本のあらすじは次のようです。
 
 小学3年の忍(しのぶ)君のお父さんは食肉解体の仕事をしています。ある日、1頭の牛が食肉解体センターにトラックで運ばれて来ました。すると、同乗していた10才くらいの女の子が荷台に上がって、牛に話しかけている声が聞こえてきました。
 「みいちゃん、ごめんねぇ。みいちゃんが肉にならんとお正月がこんて、じいちゃんのいわすけん。みいちゃんを売らんと、みんながくらせんけん。みいちゃん、ごめんねぇ」といいながら、いっしょうけんめいに、牛の腹をさすっていました。
 女の子が悲しんでいる姿を見て、忍君のお父さんは、「あした牛のみいちゃんを肉にすることは出来ないから、仕事を休もうと思っている」と仕事から帰って忍君に話しました。その夜、忍君はお父さんとおふろに入ったとき、「心のなか人がしたら、牛が苦しむけん。やっぱり、お父さんがしてやんなっせ」といいました。
 翌朝、忍君はお父さんに、「きょうは行かないけんよ!」といって、学校に向かいました。お父さんはしぶしぶ仕事に行きました。そして牛舎にいるみいちゃんに、「みいちゃん、ごめんよう。みいちゃんが肉にならんと、みんながこまるけん。じっとしとけよ。うごいたら急所をはずすけん」といいきかせて、みいちゃんを解く(殺す)ときがきました。そのとき、ちょっとも動かないみいちゃんの大きな目から涙がこぼれ落ちてきました。お父さんは牛が泣くのをはじめて見ました。
 後日、女の子のじいちゃんが忍君のお父さんにしみじみといいました。「あの肉ばすこしもらってかえって、みんなで食べました。孫は泣いて食べませんでしたが、みいちゃんのおかげで、みんながくらせるぞ。みいちゃんに、ありがとうといって食べてやらな、かわいそかろ?というたら、孫は泣きながら、『みいちゃん、いただきます』『おいしかぁ、おいしかぁ』というて食べました」

 この絵本は熊本の食肉解体作業員であった坂本義喜さんが今から二十数年前に実際に体験されたことがもとになって作られたそうです。私たちは毎日のように肉や魚や米・野菜などを食べて生活しています。食卓に食べ物が上るまでには多くの人のおかげがあり、そして多くのいのちをいただいて生かされています。食前、食後に「いただきます」「ごちそうさま」というのは、そうしたすべてのものに感謝の念を表すためのことばです。
 ちなみに私たち浄土真宗本願寺派の食前のことばは、「多くのいのちと、みなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました。深くご恩を喜び、ありがたくいただきます」と唱えます。

絵本 いのちをいただく みいちゃんがお肉になる日 (講談社の創作絵本)絵本 いのちをいただく みいちゃんがお肉になる日 (講談社の創作絵本)
(2013/12/03)
内田 美智子、魚戸おさむとゆかいななかまたち 他

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2014-01-17 : 新聞・書籍・TV :
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新聞記事「葬式代 どうします?」

 今日の『朝日新聞』に「葬式代 どうします?」というタイトルで、長野県松本市の神宮寺住職・高橋卓志さんへのインタビュー記事が大きく載っていました。 
 冒頭、次のような問いかけからインタビューは始まります。
 「サラリーマンの平均年収が468万円、非正規は168万円。そんな厳しい時代に、お葬式にかかる費用は平均約200万円とされる。そこで、長野県松本市で「『そんなにお金をかける必要はない』と唱え、実践している禅僧・高橋卓志さんを訪ねてみた。お葬式から見える社会の現状は? 私たちはどうすればいいのか」と。
 私も寺の住職として年間、十数回の葬儀を執り行っているので、近ごろの葬儀が昔とずいぶん変わって来たように思います。近年の葬儀は葬儀社がすべての手はずを整えてくれるため、費用は高くついても葬儀社にいっさいを任せた方が気楽で安心だという風潮が一般的になりました。ですから昔は亡くなったら、まず檀那寺に知らせ、そののち葬儀社を手配するというのが普通でしたが、いまは逆になりました。昔は通夜は行わなかったのに、いまは葬式に出られない人のための前日葬のように麗々しく行われています。昔は自宅葬か御堂葬(寺での葬儀)が普通でしたが、いまは会館葬儀が一般的になりました。
 このように時代の流れにしたがって、葬儀のあり方も大きく変化してきました。それにつれて葬儀代もかさむようになったため、その費用くらい残しておかないと遺された者が困ってしまうという人も少なくありません。都会で病院から火葬場に直行して葬儀をしない「直葬(ちょくそう)」が増えている一因に葬儀代の問題があるといわれるのもうなずけます。私も僧侶として葬儀を執り行う立場と両親の葬式を出した立場の両方から、神宮寺の高橋さんのような取り組みに大きな関心を持つとともに、わが寺で実践できることは何かを考えるヒントが与えられました。

 「朝日新聞」平成26(2014)年1月16日号
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(以下にインタビュー部分のみを新聞記事から転載します)

――お葬式を営む立場から、この地域の経済状況はどのように見えますか?

 「何とか安くできないか、という相談がこのところ増えているように思います。生活が本当に苦しくて、『葬式にお金はそう出せない』という方が3割はいらっしゃる。いや、もっとかな。お金は一応ある方でも『できるだけ安く』と希望されます。この地域ではいまでも、自分のお葬式代を用意している家は、割とあるんです。それでも決して楽ではないのだろうなと感じています」
 「この寺では生前からのお付き合いを大事にし、お葬式の事前相談を積極的に受けています。費用のことも気軽に聞ける雰囲気を意識的につくっているから実情がうかがえるわけです。外からは普通のお宅に見えても、実は内情が厳しいことがある。経済的な問題が背景にある自死も、毎年あります。ちょうど1年前には70代の経営者が亡くなられました。借金はなかったけど、営業不振だったそうです」
 「ほら、お布施が4万円や5万円の方もいらっしゃるでしょう。ああ、この3万円は生活保護のお宅でしたね。事情によっては、お布施は受け取りません。昨年は約80件のお葬式にかかわりましたが、3件はお布施ゼロです。それどころか、寺の持ち出しもあります。ここに赤い字で『13万8千円』と書いているのは、この寺が棺(ひつぎ)などの実費を払ったという意味です。亡くなったのは60代で独り暮らしの方。手元には1万円しか残っていませんでした。離婚し、息子さんとも縁が切れてしまっている。お葬式に来てくれたのは、勤め先の社長だけでした」
 「2000年にNPO『ライフデザインセンター』を立ち上げました。死をタブー視せずに見つめ、そこから老いや病を考えようという考えからです。判断能力が不十分になった時に備える成年後見制度の相談に乗る中で、生活が厳しかったり、家族からも見捨てられたりした方の存在が浮かび上がってきます。やはり、お葬式は心配のようですね。依頼が来るんです。万一のときはやってもらえないだろうか、と」
 「例えば、親を長く介護していると医療費などが非常にかさみます。その末に、いよいよ最期のお葬式に100万円も200万円もかけるなんて、とてもじゃないけど無理ですよ。『もうお葬式をする費用がないけど』という方の相談にも乗っています。貧困や高齢化、家族のきずなの危うさ……。そうした矛盾がお葬式に凝縮されるかのようです」
   
 ――いまの日本社会の縮図ということですか。

 「その通りです。お葬式は時代を映しますね。30~40年前までこの地域は寺も檀家も、みんな貧乏でした。私の母だって借金に走っていました。それでもお葬式となると地域の人たちが3日間、ずっと煮炊きをして食事を用意していた。地域コミュニティーは冠婚葬祭でつながっていた側面があります。しかし、高度経済成長期からお葬式はどんどん大きくなっていく。会葬者が千人規模というケースもあり、まるで家の権威を周囲に見せるためのようでした。バブル期は寺の再建ラッシュで、檀家は何十万円もの寄付を平気で出してくれました。その時期、お布施は全国的に一気に上がった。いまもその流れを断ち切れずにいるわけです」
 
 ――この地域は宗教儀礼に対して保守的だったはず。簡素なお葬式がなぜ受け入れられるのでしょう?

 「もともとは、お葬式に坊さんが6人も12人もずらりと並ぶような土地柄です。そんな地方でさえ、実は無駄なお金をかけずに『納得できるお葬式』が求められていたのでしょうね。ここまでお葬式を改革するのに、葛藤と失敗を重ねて30年かかった。でも情報公開を進めるうちに、檀家さんに浸透していきました」
 「みなさん、お葬式は高額というイメージを刷り込まれていないでしょうか? 特に地方では『あの家はちゃんとした葬式も出さなかった』とか、言われますからね。でも、たくさんの人が押しかけるようなお葬式なんて、もうやめたほうがいいですよ。会葬者に気を使って頭を下げてばかりだと、主役であるはずの遺族は故人とお別れする時間が減ってしまいます」
   
 ――関東では、病院から火葬場へ直行する「直葬」が2割ともいいます。通夜や告別式をしないことが多い。どう考えますか。

 「坊さんたちは危機感を持ち始め、『あんなのは葬式じゃない』と批判していますね。私はそうは思いません。経済的に苦しければ仕方ないじゃありませんか。寂しいけど、社会はそうなりつつある。現実としてね。宗教的儀式をしなくても、お骨を一定期間、手元に置いて故人と『対話』するとか、心の込め方はいくらでもあります」
 「直葬が広がるのは、お金の問題とは別の背景もあります。団塊の世代は、定番のお葬式に対して違和感を覚えるんです。私もそうだから分かる。学園闘争に加わったり、社会を変えなければと考えたりした世代です。親を従来型のお葬式で送るのは仕方ないと思っても、自分はあんな葬式はしたくないという意識が強い。『千の風になって』が大ヒットしたのもそういうわけです」

 ――なぜ、そこまで熱心にお葬式のことを考えるようになったのですか?

 「私は昔、本当にだらしない坊主だったんです。遊びまくっていたしね。変わったきっかけは1978年、インドネシアの小さな島で旧日本兵の慰霊に参加したことです。玉砕の現場となった洞窟に入ると、泥水の下はお骨だらけ。遺族は倒れ込んで号泣し、私は足が震え、読経できなくなりました」
 「それからです、スイッチが入ったのは。宗教は人の苦しみや痛みを緩和することができるのだろうか、と考え込むようになりました。お葬式のあり方を徹底的に考えよう、大切な人の死を一番悼んでいる方に寄り添おうと決めたのです。お葬式の前にご遺族の話をゆっくりお聞きするのはそのためです。100人の人生があれば、100通りの別れ方があるはず。DVDも派手な演出をしたいからではないのです」
   
 ――改めてお聞きします。そもそも、お葬式とはいったい何ですか?

 「故人は亡くなるまでの年月を精いっぱい生きた。そのことへの敬意を限られた時間で表し、心にちゃんとしまい込む場。それがお葬式です。そうやって故人とともに過ごした生活に決別するのです。死生観が揺らぐ一方で、ぎりぎりの生活を強いられる現代。そこでどのように家族を送るのか、自分はどう送られたいのか。一人ひとりが新たな『葬式観』を構築し直さねばならなくなっているのだと思いますね」
 (記者 磯村健太郎)

      
2014-01-16 : 新聞・書籍・TV :
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大嶺炭田の歴史 (変電所)

 大嶺炭田の中で最大の採炭事業を行っていた炭鉱が昭和45(1970)年11月に閉山した山陽無縁鉱業所でした。その鉱業所の遺構は現在でも多く残っていますが、ここに紹介する変電所もその一つです。地元で「市の事(いちのこと)」と呼ぶ地区に今では珍しい総レンガ造りの変電所の廃屋が荒れ果てたままひっそりと佇んでいます。この変電所がいつごろ造られたかわかりませんが、推測するにレンガ造りの洋風建築が流行した大正時代か、あるいは昭和の初めころのものではないでしょうか。そのレンガの外壁にはツタが絡まり、中に入ると操業当時に使われていた機器類の一部が撤去されずに、そのまま残されています。この建物の内部と周辺を整備して往時を偲ばせる姿に修復・保存すれば、貴重な炭鉱の歴史・文化遺産として活用できると思うのですがね。

建物外観
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外観
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外観
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高圧線用の碍子(がいし)
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入口
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内部
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壁に貼り付けた当時の送電図(上の写真を参照)
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内部
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天井をのぞむ
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2014-01-15 : 麦川地区 :
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宇部サンド工業

 寺の向かい側には、旧山陽無煙鉱業所の跡地を利用した「宇部サンド工業」という宇部興産系列の会社が操業しています。「サンド(sand, 砂)」という会社名が示すように、市内伊佐町二神の近くの平野山から採掘される珪石(けいせき)をトラックで運んで来て、ここの工場で珪砂(けいさ)を製造販売する会社ということです。この珪砂は研磨材として船舶の錆取りなどに使用されると聞いています。それ以外にも製品を製造販売しているようですけれど、詳しくはわかりません。
 この会社と麦川川との間を走る県道38号線バイパスは、山間部の道にもかかわらず、10トンダンプをはじめとしてトレーラーなどの大型車両がひんぱんに通行します。そのバイパスがこのたび拡幅計画のため、現在のサンド工業の事務所が解体され、そばに新築移転することになりました。そこで今日はもうじき解体工事に入る事務所とついでに工場の一部を撮りました。

県道38号線バイパス脇に建つ「宇部サンド工業」事務所
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「宇部サンド工業」入口
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解体予定の「宇部サンド工業」事務所正面
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工場
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工場
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基礎工事中の新事務所
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2014-01-11 : 麦川地区 :
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マンリョウ

 今日の天気予報では寒波が南下して明け方あたりに雪が降るかもしれないという予報でしたが、午前中は日差しがあって穏やかな日和でした。寺の境内に経藏があります。その前に植えてあるイブキの根本に、寄り添うように小さなマンリョウの木が今、艶やかな赤い実を付けています。このマンリョウはそこに植えたというよりも、種が落ちて育った実生の木のように思われます。先日、紹介したセンリョウとともに正月用の縁起の良い植物として親しまれています。


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2014-01-09 : 西音寺 :
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望郷の丘 (韓国 天安市)

 一昨日の本ブログで書いたように、私は今から3年半前の平成22年8月に韓国天安市にある国立墓地「望郷の丘」へ墓参に行きました。行った理由についてはご門徒に配布する『西音寺だより』(平成22年9月13日号)に載せましたので、その時の文章をそのまま以下に転載します。

 先月、8月18日~20日まで2泊3日の日程で、韓国への墓参団(全6名)に参加しました。私が参加したのには、次のような理由があります。
 今は昔、石炭産業が盛んなころ、山陽無煙などの炭鉱で働いていた韓国人が、事故や病気で亡くなって西音寺にその遺骨が保管されていました。今から27年前の昭和58年、西音寺や他寺に保管されていた全部で12体の韓国人遺骨が韓国・天安市にある国立墓地「望郷の丘」に返還されました。遺骨は、寄付金で建立された、「日本国 山口県美祢市 無縁 故韓国人 合同之墓」と墓標に刻まれたお墓に埋葬されました。
 その後、平成10年に墓参団が参拝に行ったあと墓参がなかったため、日韓併合百年にあたる今年、正隆寺(吉則)前住職さんの呼びかけで、「望郷の丘」へ墓参に行くことになりました。西音寺に保管されていた遺骨を私の父(前住職)が返還しに行った因縁によって、私もこのたび参加したというわけです。
 8月の炎天下、私を含めて4人の僧侶が「望郷の丘」の墓前で読経をした時、27年前に父もここで読経したことを思って、ひとしきり感慨にひたりました。
(以上は『西音寺だより』の「住職雑記」に載せた内容)

 ちなみに、「望郷の丘」は、いろんな理由で祖国を離れ、異郷の地で亡くなった韓国人海外同胞を祖国に埋葬するために1976年に造成された国立の墓地です。

参加者の記念写真
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美祢市の墓
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美祢市の墓の裏面
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整然と墓石が並ぶ墓地
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大韓航空機撃墜事件(1983年)の慰霊塔
韓国(22年8月18~20) 053
2014-01-05 : 外国 :
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西音寺の歴史(9) 韓国への遺骨返還

 今から30年前の1983年(昭和58年)9月17日付け「朝日新聞」と「毎日新聞」によれば、次のように記されています。
 戦前、朝鮮半島から日本に強制連行され、炭鉱で働いていた時に事故や病気で亡くなって、無縁仏となった韓国人の遺骨を祖国の墓地に納めてあげたいという美祢市民の運動が実現して、12体を韓国の国立墓地「望郷の丘」(忠清南道天安市)に納骨することになった、と。
 さらに記事は、この遺骨帰還運動は前住職の私の父が寺の納骨堂に無縁になった韓国人の遺骨が保管されている、と知人の在日韓国人に話したことがきっかけになり、市内4ヵ寺に保管されていた12体の遺骨を韓国の「望郷の丘」に納骨することになった、とあります。
 わが西音寺はかつての大嶺炭田の中心地にある寺のため、炭鉱が操業していた当時は、その従業員や家族などの葬儀を市内で最も多く執り行った寺でした。強制連行されて朝鮮半島から炭鉱に来て働く人には、亡くなってもお墓などないから遺骨を寺に預けるしかなかったようです。前住職は引き取り手のないまま預けられた韓国人の遺骨をそのまま放置しておくわけにはいかないと思ったのでしょう。そして帰還運動が実現して前住職ら美祢市の関係者が遺骨を韓国の「望郷の丘」へ納骨に行ったようです。当時、寺にいなかった私はこのことをまったく知らなくて、ずいぶん後になって聞き知ったような次第です。
 下の写真は7年前に前住職が亡くなったあと、遺品を整理していてたまたま見つかったものです。私も3年半前の平成22年夏、「望郷の丘」にはじめて墓参に行きましたが、そのことは後日、本ブログで紹介したいと思います。

前住職を先頭に遺骨を携えた返還団の列(昭和58年9月26日)
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国立墓地「望郷の丘」
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「望郷の丘」での納骨供養
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納骨供養で礼拝する前住職
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「望郷の丘」に建立された「美祢市 無縁故韓国人合同之墓」
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遺骨帰還の実現を伝える「朝日新聞」(昭和58年年9月17日付)
朝日新聞(S58-9-17)

同「毎日新聞」(昭和58年年9月17日付)
毎日新聞(S58-9-17)
2014-01-03 : 西音寺 :
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法語掲示板

   生かさるる いのち尊し けさの春 (中村久子)

 新年にあたって門前の法語掲示板を担当している坊守が、中村久子さんの句を載せました。明治30年岐阜県高山に生まれ、昭和43年72才で波乱の生涯を終えた中村久子さんについては、これまでテレビや書籍、あるいはネット上などでいろいろ紹介されていますので、ここに改めて書く必要もないかと思います。ただ中村さんが3才のとき凍傷が原因で特発性脱疽に罹り、幼くして両手両足を失うという痛ましい身体になって幾多の辛苦をなめながらも、本願他力の信心を得て、力強く生き抜かれた生き様には教えられることが多くあります。
 中村さんは珠玉のことばを多く残されています。例えば、「人の命は、つくづく不思議なものです。確かなことは自分で生きているのではない、生かされているのだということです。どんなところにも必ず生かされていく道がある。すなわち人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はありません」と。
 他に次のような歌も感銘深いものです。

  手はなくも 足はなくとも み仏の 慈悲にくるまる 身は安きかな

  手足なき 身にしあれども 生かさるる 今のいのちは 尊かりけり

  さきの世に いかなる罪を 犯せしや 拝む手の無き 我は悲しき
 
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2014-01-02 : 西音寺 :
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新年のご挨拶

 新年明けまして、おめでとうございます。

 皆さまにとって健やかで、安寧なる年になりますよう念じます。

 
 今日の元旦は穏やかな天気のもと、新しい年が静かに明けました。門前の道路を通る車はほとんどなく、寺の目の前にある工場は正月休みで物音一つせず、保育園も休みですから、今日は1年で最も静かな日です。一昨年の1月6日、宝林廟の造営を広く皆さんにお知らせするために始めたブログも、もうじき丸2年を迎えようとしています。このブログのおかげで、それまでご縁のなかった多くの方々とお知り合いになり、新たなご縁を結ぶことが出来ました。今年もいろんな写真を素材にしてブログを更新したいと思いますので、今後ともよろしくお願いします。
 毎年、お正月を迎えるにあたってお餅をお供えし仏前を荘厳して、新年のご挨拶はまず仏さまへのお参りからでした。

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2014-01-01 : 西音寺 :
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プロフィール


浄土真宗本願寺派 西音寺 住職  
住所:山口県美祢市大嶺町奥分 2058
電話 0837-52-0415

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